私がロボット義足を作るまで~BionicM CEO 孫小軍 part1~

私は、新卒で入社したソニーを退社後、東大情報理工学系研究科を経て、2018年12月に弊社BionicMを創業しました。

なぜBionicMを起業するに至ったか。

ここからシリーズに分けてBionicM創業までに至ったヒストリーをご紹介します。

1.「数年しか生きられない」松葉杖生活の始まり

私が義足開発の道を志したのは、自分自身が義足との出会いによって人生を大きく変えることができたからでした。

 

中国・貴州省の農家に生まれた私は元々健常者でした。

ある時、友達とバスケットボールで遊んでいた時に、右脚に強い違和感を覚え、病院で診察を受けたところ、その違和感は骨肉腫だと判明しました。

 


※骨肉腫:骨にできるがんの中ではもっとも頻度が高いがん。患者数自体は非常に少なく、日本における新規年間患者数は200~300人程度。 なかでも10~20歳代に多く、そのうち10歳代が全体の60%を占める。主な症状は痛み。レントゲン検査で骨に変化があらわれるまで症状が出ないことも珍しくない。


「手術しないと数年しか生きられない」と、地元の病院でも、都市部の大学病院でも、告げられられました。迫られた選択は、原因となる腫瘍部分である右膝から上を切断すること。結果として、私は9歳の時に右足を切断することになりました。

切断してから、友達と大好きなバスケットボールが出来なくなって、走ることも出来なくなりました。これまでの生活と大きく変わりました。家にこもって、将来に対して不安を感じ始めました。これから何をできるだろうかと、ひたすら考え続ける日々でした。

ここから約15年間、松葉杖を使って生活をおくる日々が始まりました。
当時の中国では、義足自体がとても高価なものでした。その上、助成制度等もなく、松葉杖生活を余儀なくされました。

しかしながら、想像以上に松葉杖での生活は困難の連続でした。松葉杖は両手が拘束されるので、日常生活を送るのにすごく不便なんですね。

雨の日は特に大変でした。学校へ登校するだけなのに、通学時は滑って何度も転びました。
なにより、大好きだったバスケットボールに参加することが出来なくなりました。切断後から、友人たちのプレーをただ眺めることしか出来なくなりました。

脚を切断する前までに自分一人で出来ていたことが、出来なくなったのでした。

家業である農業も出来なくなり、「将来どうやって生きていけばいいのだろう」と、絶望的な気持ちでした。

自分なりに将来について考えた結果、「歩いたりすることが少ない、オフィスワークに就くしかない」と思いました。勉強したら、そのような仕事につけ、なんとかなるかもしれない。その一心で、勉強に励み、無事、中国の大学に入ることができました。

大学に入った当初から「どこかへ留学したいな」という気持ちがありました。というのも日本製の製品は中国では有名で、憧れる存在。なので「いつか日本に行ってみたい」と思っていました。そんなとき、東北大学との交換留学制度が大学にあることを知りました。これはどちらも叶えられるチャンスだと思い、おもいきって応募することにしたのです。その結果、無事選ばれることができました。そして、2009年、東北大学の交換留学生として日本にはじめて来日しました。

最初日本に来た時は、日本語を全く喋れませんでした。しかし、道を迷った時には丁寧案内してもらえたことに感動しました。また、街はどこも綺麗でびっくりしました。
当初交換留学が終わってから、アメリカの大学院に進学しようと思っていましたが、日本での生活も楽しいので、日本の大学院に進学することを決めました。その後、大学を卒業し、東京大学大学院に進学しました。

2. 「両手が解放された瞬間」

義足に出会ったのは、大学院生だった24歳の頃でした。

たまたま訪れた区役所で出会った職員が義足利用者で、私に義足に対する助成制度を教えてくれました。費用が高すぎて、幼いころにあきらめていた義足。

ですが、助成制度があるならばと、私はついに助成制度を利用することに決めました。生まれて初めて義足を装着しました。

1年近い製作とリハビリの期間を経て、はじめて街に出た時の喜びは今でも忘れません。

雨の日も傘をさして外出したり、大学の食堂で自分でトレーも持てるようになりました。

15年ぶりに両手が解放され、人生が変わった瞬間でした。

ここから私の人生は180度変わりました。
次の章では、BionicMの誕生に関してお話させていただきます。

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